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Marilyn Monroe



This print is available at Celebrity Art Prints.

ーバイオグラフィーー
by The Beauty Of Art

参考資料:Images of Marilyn Monroe

マリリン モンローは、1926年6月1日にノーマ ジーン モーテンセンの名でアメリカ合衆国ロサンンジェルスに生まれた。後に世界的に知られるようになるマリリン モンローという名前は芸名である。
マリリンの母親はマリリンが生まれる前、映画製作会社でフィルムカッターの仕事をしていたが、そこで職人の監督を務めていたチャールズ スタンリー ギフォードがマリリンの実の父親ではないかとされている。しかし当時母親のグラディスは、二番目の結婚相手であるマーティン エドワード モーテンセンの姓から取ったモーテンセンで職場に名前を登録しており、マリリン自身もモーテンセンの姓で出生登録されているが、母親とその夫との関係はマリリンが生まれるずっと前に終結していたことから、マーティン モーテンセンは実の父親ではないと考えられている。実際のところ、マリリンが自分の本当の父親が誰なのかを知ることは一生なかった。

片親で育てていくうち、すぐに生活が苦しくなったグラディスは、マリリンを里子に出すほかなかった。グラディスの知人ボレンダー家は、他人の子供を養育した経験があるため、マリリンを育ててもらうことになった。マリリンはそこで7才まで育てられ、母親とも頻繁に会う機会を与えられていたいたという。1933年に一度マリリンは母親に引き取られるも、翌年母親が鬱病を発病し精神病院に入ることになる。その後マリリンを養子にしたのが母の知人グレースだったが、のちに間もなくグレースが結婚することになり、マリリンは孤児院に入ることになった。
1942年、安定した職を手に入れたグレースの夫が、16才になったマリリンを迎えに孤児院へと向かった。しかし、マリリンは21才の近所の青年と結婚することで、”たらい回し”の現状から抜け出していた。のちすぐに軍事工場での仕事を見つけたマリリンだったが、そこで偶然フォトグラファーの目に留り、モデル会社と契約、モデルとしてのキャリアをスタートさせる。褐色の髪の毛をブロンドに染め出したのがこの時からである。
 夫は海軍に徴兵され海外へ行くことになったが、モデル業で自分自身を養うすべを知ったマリリンは、4年目にして結婚生活に終止符を打った。

1946年、大手映画製作会社20センチュリー フォックスのスクリーン テストに合格、モデル業をひとまず休んで6ヶ月の契約を手に入れた。この日からがマリリンモンローの誕生となる。しかし、実情はその間3本のB級映画に出演しただけで、モデル業に戻るところだった。
ところが、幸運にもマリリンはコロンビア スタジオから見出され、コロンビアから歌声を披露する映画作品に初出演した。彼女の演技は好意的な関心を引くも、会社との契約更新には至らなかったが、そこでの個人演劇コーチとの出会い、ハリウッド エージェントのジョニー ハイドとの出会いが、その後のマリリンの女優への道を大きく切り開く結果となった。ハイドのサポートを受け、モデル業を続けながら、翌年次々と5本の映画に出演。その中にはオスカーを獲得した映画『イヴのすべて』がある。ところが、同年ハイドが突然逝く。しかし、それまでの彼の協力によって、マリリンは再びフォックスとの長期契約を交わすことに成功していた。
1952年の映画『ノックは無用』、後の作品『モンキービジネス』で大スターとの共演を果たし、マリリンの人気は急上昇した。しかし同年、マリリンがピンナップガールをしていたときのヌードカレンダーが発売されスキャンダルになってしまう。ところが、マリリンのファンの反応は、運良く同情的なものであった。同時にこの年、新たな幸運も舞い込む。伝説のベースボールプレーヤー、ジョー ディマッジオとの出会いである。それは瞬く間に二人の間で恋愛へと発展した。

1953年には『ナイアガラ』で愛人と組んで夫を殺人する妻役を演じ、『紳士は金髪がお好き』では、お金目当てに男に近づく少々”おバカなブロンド”役を好演した。その後の『億万長者と結婚する方法』でも早々と大ヒットを飛ばすが、翌年の『帰らざる河』の収録が終わった頃には、あまりのハードなスケジュールに気が徐々に滅入り始めていた。
1954年ジョー ディマッジオと結婚。ジョーは同年日本のプロ野球の開幕式に招待されていたため、二人はハネムーンに日本に訪れるが、マリリンは滞在中病気になってしまう。
 もうひとつ日本滞在が二人にとって悪い思い出となった理由がある。それはマリリンに韓国に駐留するアメリカ軍を慰問しに訪れて欲しいという依頼が入り、マリリンがそれを受け入れたためである。普段からマリリンがほかの男の注目を集めることにいら立ちを感じていたジョーは、これに大変嫉妬し激怒した。これはその後の結婚生活の崩壊をも予兆させるものであった。
 アメリカへ戻ってから撮影に入った『ショウほど素敵な商売はない』では、日本で発病した病からまだ完全に回復しておらず苦しんでいた。マリリンの心配はそれ以来さらに大きくなり、もはや過剰な仕事量と名声とをうまく調和させることができなくなっていった。このころから処方薬を摂るようになったとされる。
その後すぐにマリリンが大成功をおさめた映画『七年目の浮気』の撮影に入るが、地下鉄の格子から吹き上がる風でスカートがめくれ上がる伝説的なシーンでは、夫のジョーは下着の見えた妻の周りを男の群衆が楽しそうに囲んで撮影してるところを見て、怒りをあらわにした。これが離婚への最後の引き金となってしまう。専業主婦になるためにキャリアをあきらめるということがどうしてもできなかったマリリンは、ジョーを愛していながら離婚を決意した。その後は劇作家のアーサーミラーと結婚するが、二度の流産を経験し離婚した。

1956年の『バス停留所 』では、それまで演じてきた”ブロンドのおバカさん”から、絶妙な演技のできる非常に優れた俳優としてイメージを一新させた。
ブロンドはセクシーで頭が悪いというイメージを、演技によって世界的に浸透させるほどの優れた演技力を持っていたマリリンだが、このイメージは仕事を離れた私生活においてもマリリンに固定されてしまい、払拭するのに生涯悩み苦しんだといわれている。それが結果として、幅広い演技のできる尊敬される女優を目指すことへの執念となっていった。実際は読書を好む非常に頭の良かったマリリンだったが、人生の後半はそのイメージを取り払うため、ひたすら演技を磨き女優の道をまい進した。1960年以降は精神病を煩い、1961年の『荒馬と女』の出演を最後に、1962年8月5日、自宅の寝室で亡くなっているところを発見された。36才であった。


"I don't want to make money. I just want to be wonderful."- Marilyn Monroe
”お金儲けはしたくないわ。私はただ素晴らしい人になりたいのよ。”ーマリリンモンロー


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人物に関するエピソード
マリリンは元夫のベースボールプレヤーだったジョーと、死んだ3日後に再婚する予定であったことが知られています。ジョーはマリリンと再び結ばれる代わりに、悲劇的にマリリンの葬儀に出席することになってしまったのです。その日からジョーは20年以上一度も欠かさず毎週マリリンのお墓に花束を持って訪れていたといわれています。それはマリリンが死ぬ何年も前に二人で交わした約束だったそうです。

今、故ヒースレジャーの妻で女優のミッシェルウィリアムズがモンロー役に扮した映画が製作されているとの情報により、今回再びマリリンモンローを描くことにしました。
私自身も女優マリリンモンローのファンです。マリリンはよくユーモア溢れる役を演じていましたが、彼女の演技力はまさにどんな種類の映画であっても研ぎすまされたように鋭く勢いがあってすばらしいものです。実はマリリンは遅刻癖がひどいことで有名でした。オンの日でもオフの日でも外見をとても気にするタイプで、遅刻の原因は出掛ける際見た目が完璧でないと気が済まなかったせいであったとされており、その外見へのとらわれは成功とともにエスカレートしていったのだそうです。

作品を仕上げていく過程はCelebrity Artで紹介しています。元夫のジョーディマッジオとの写真、韓国での米軍への慰問の実際の写真も載せています。
絵はCelebrity Art Printsでプリント販売しています。

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