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サイレント映画女優- Louise Brooks


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バイオグラフィー

艶やかな黒髪のおかっぱヘアに、抜けるような白い肌。ー 20世紀を代表する映画女優のひとりとして知られるルィーズ ブルックスは、1906年、アメリカ合衆国のカンザス州で弁護士の父とピアニストの母とのあいだに生まれた。母親は芸術家肌で、子供達(ルィーズときょうだい)が幼い頃からよくピアノを弾いて聴かせ、本と音楽を好きになるように育てたのだという。

1920年代から30年代にかけて、ハリウッドやヨーロッパで主に無声映画に出演し活躍した。ボブヘアのトレンドを世界に最初に持ち込んだ人こそルィーズ ブルックスである。

映画デビューの年の1925年から引退する1938年までの間、24本の映画に出演。その中の1928年に出演した『港々に女あり』がきっかけで、ヨーロッパで注目されることになった。
ところが、1929年にドイツで撮られた映画『パンドラの箱』でルルという名の役を演じたのだが、これがルィーズ ブルックスの名を伝説的女優として歴史に刻んだと同時に、ハリウッドでのキャリアを逆に陰らせてしまうこととなる。
レズビアンを題材にしたこの映画でのルィーズのセクシーな演技が巧妙で生々しいと、多くの人々の反感を買い、アメリカでもめったに映画の論評がされないという結果になってしまったのである。(わざと演技をしていないのか、もしくは演技が全く出来ないかのどちらかだと言われるほど、”地”でやっているように見えたらしい)

そのあとすぐに『淪落(りんらく;おちぶれるの意味)の女の日記』、『ミス ヨーロッパ』の2作品にも出演したが、それらはすべて当時の映画としてはショッキングなアダルト映画とみなされ、社会批判的内容も含め激しく修正がなされた。しかしながら、今日においては、『パンドラの箱』はサイレント映画の中で画期的な映画であると評価されている。

ハリウッドでは映画製作会社のパラマウントと契約していたが、パラマウントをひどく嫌っていたルィーズは、ヨーロッパに渡るにあたって契約を破棄していた。1931年に仕事の舞台をヨーロッパから再びハリウッドに移すも、B級映画の役どころしかなかった。1938年のジョンウェインとの西部劇に出演したのを最後に、女優業から退いた。
引退後は作家に転身。文才を発揮し、50年代から70年代にかけて多くの映画雑誌にコラムを連載するなどし、外見の良さだけでなく、知性も兼ね備えていたことを世に見せた。1985年に78才で亡くなっている。


***人物に関するエピソード***

ルィーズは9才の時、両親の知らぬ間に近所に住む男から性的虐待を受けていた。大人になってからそのことを母親に明かしたが、母親は「あなたが誘うような隙を相手に見せたのが過ちだ」と答えた。性的虐待を受けた経験は大人になってからも彼女の人生に大きく影響し、それが原因で、恋愛をしても本当の愛を見出すことができなかったとルィーズは後に振り返っている。

彼女の活躍していた1920年代は日本の大正時代。その時代に生まれたモガという言葉は、西洋人の装い/ヘアスタイルなどを真似た日本の若者のことを言う。ルィーズ ブルックスの前髪パッツンのおかっぱヘアは、当時の日本女性の間で大流行した。
本人も、「まだ女性達がモコモコのセーターやざらざらとしたスカートを着ていた時代に、私は艶やかな揃いのスーツを着たり、たっぷりの毛皮に、肌を半分露出したビーズ製のドレスを合わせて着ていた。」とその並外れたおしゃれっぷりを語っている。

 "A well-dressed woman, even though her purse is painfully empty, can conquer the world. " - Louise Brooks
"身なりのいい女性ってお財布の中はひどく空っぽなんだけど、世界を征服できるの。” - ルィーズ ブルックス

作品が生まれたきっかけ、詳細はCelebrity Artを御覧下さい。*Celebrity Artの文字をクリックすると御覧いただけます。

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