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Grace Kelly - (Grace=気品)という名のハリウッド女優


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女優 グレース ケリーの生涯
参考資料:A Life In Pictures

モナコ公妃 グレース ケリーの生涯と作品の制作過程はCelebrity Artでご紹介しています。


グレース パトリシア ケリーの誕生

1929年 11月12日アメリカ合衆国フィラデルフィアで、グレース パトリシア ケリーは4人兄姉の上から3番目に生まれた。グレースの父親は煉瓦職人から一代で財を成した富豪で、1920年のアントワープオリンピックでは、ボートレースで金メダルを獲得するなど熟練のアスリートでもあった。
1924年に父ジョンはドイツ系の美しい若い女性と結婚する。彼女もまた有能なアスリートで、ペンシルベニア大学の初の女性体育教師でもあった。それがグレースの母親である。

一家の家は、敷地内の庭園を見下ろすように建てられた、豪華な17部屋の大邸宅である。また家には子供の世話をする召使いを置くなど、まさに裕福そのものであった。アスリートの両親の血を引く子供達は皆スポーツ好きで、いつも元気に走り回り、常に競い合っていたのだが、グレースだけは違った。スポーツには興味が無く、喧嘩も、競争も嫌いで、しかも病弱でぜんそくを煩っていたため、幼少期のほとんどを自室のベッドで過ごしていた。そんな小さくひ弱なグレースの唯一の友達は人形であった。人形とのファンタジーの世界を創造し、毎日ひとり空想の世界で遊んでいたのだ。その頃から英国のエリザベス王女(後の女王)やマーガレット王女に憧れを抱くなど、王室への関心があったとされる。


母親のしつけとグレースの夢

ドイツ血統の母親の子供への教育は厳しいものであった。子供達は母親に対し”プロイセンの将官”とあだ名をつけるほど、家庭内はまるで軍隊にいるかのような空気が流れていたという。ほかの母親がするような子供達へのキスも抱擁もない。それどころか厳格で、遅刻を最も嫌い、たとえ家長であってもケリー家では遅刻は決して許されなかった。また、無駄を嫌うため節約家であり、きれい好きで規律正しく、何事も準備周到であった。しかし、その母親の教育方針こそ、後に王室に嫁いだ娘グレースの大いなる基盤となっていったことは言うまでもない。

ほかの兄姉と違い、幼い頃からグレースは芸術や音楽を好み、8才になるとバレリーナになる夢を描いた。バレーへの興味からダンスのクラスを受け始め、12才のときに初めて演劇でステージに立った。その頃から両親はグレースの舞台での才能に確信を持ったのだという。

幼顔を少し残しつつ、スリムで背の高い、気品を湛えた少女へと成長していくグレース。16才ですでに身長は167センチ。日増しに異性からの視線を集める中で、まだ頬をバラ色に赤くするシャイな一面を持っていた。当時の趣味は泳ぐことと映画館でコメディミュージカルを観ること。1947年の一家のヨーロッパ旅行を機に、ロンドンで大好きなミュージカル巡りを楽しんだあと、喜劇女優になることを決心したという。


巣立ち

同年17才で演劇学校に入るため単身ニューヨークへ渡る。家族に失望させたくないという一心で2年間熱心に演劇を学びながら、生計を立てるためモデルの仕事についた。広告モデルから雑誌の表紙モデルへ、ついにはテレビに出るまで人気を高めていく。演劇学校での2年目にはハンサムな年上の教師と恋に落ち、家族に紹介するため家でのディナーに誘ったのだが、両親の評価は厳しかった。その日の失敗ディナーは、瞬く間にふたりの関係を終わりに導いた。

演劇学校を卒業した後、数々の地方舞台オーディションを受けていくが、ほとんどの場合相手役の男性よりも背が高いことが災いし、なかなか合格しなかった。しかし、20才でようやくブロードウェイの初舞台に立つことになる。 その後はエージェントに属し、フランス人喜劇俳優ジャン ピエール オーモンと舞台共演したりもした。控えめで、非常に礼儀正しかったグレースは、いつも「ミスター オーモン」と敬称で呼び、それが当人をとてもいらつかせたそうだが、ふたりはそのうち打ち解けて友人になった。


女優 グレースケリー

グレースは舞台女優からさらなる演技の幅を広めるため、映画女優への道を模索する。ある映画製作会社のスクリーンテストを受けたとき、合格は逃したものの、なんとそこにはかの有名なジョン フォード監督とアルフレッド ヒッチコック監督が来ており、スクリーンテストを見ていたのだ。それからしばらくした後、グレースに映画初出演の依頼が入った。ヘンリーハサウェイ監督の作品『Fourteen Hours』の小さな役柄である。

そして2作目の出演作品『真昼の決闘』は西部劇であったが、銃での撃ち合いも、馬に乗った追いかけ合いも、インディアンも出て来ないという、西部劇のイメージからはほど遠い西部劇であった。この映画製作中に数十本の舞台依頼があったことで、グレースは製作会社UAとの3年間の契約を拒み、舞台との掛け持ちをした。ハリウッドがグレースにいくら高い給料を積んだとしても、グレースは自分の自由を売りたくなかったのだ。
結果的に、この映画の完成はグレースによって大幅に遅れた。しかし、この型破りな西部劇は観衆に当惑をもたらしながらも、主演のゲイリークーパーがオスカーを獲得するなどし、大成功を収めた。またこの頃の私生活においては、お酒好きの離婚歴のあるアイルランド人の喜劇俳優との恋を急速に実らせていたが、またもや両親の反対に圧され関係はすぐに終わった。

この時期、大手映画製作会社MGMがニューフェイスを探していた。そこで新進女優であるグレースケリーに目を付け、数十年にもわたる契約を持ちかけたが、グレースはまたもや断った。ところが、ジョンフォード監督の『モガンボ』への出演依頼が入り、クラークゲーブルの相手役でアフリカでの撮影と聞いたことで、ついに熱心なMGMからのラブコールに承諾、7年の契約を交わした。『モガンボ』は大ヒットし、グレースケリーはオスカーにノミネートされ、ゴールデングローブの助演女優賞を獲得した。

その後アルフレッドヒッチコック監督との運命の再会が訪れた。監督の映画1954年の『ダイヤルMを廻せ』に主役で出演して欲しいと依頼される。ヒッチコックは作品を通し、23才のグレースケリーにクールビューティーの妖艶な女のイメージと、近寄りがたく大胆な女のイメージを作り上げた。アルフレッドヒッチコックが生んだカリスマ女優、グレースケリーの誕生である。
1954年に、またもやヒッチコックの次の作品『裏窓』に出演。撮影の一コマ一コマで監督を満足させる演技をし、真のスタートしての頭角を現し始めていた。
同年、映画『トコリの橋』と『喝采』にも出演。両作品で共演したウィリアム ホールデンとは禁断の恋に陥るも、再び両親の干渉によって関係は終わる。
53年から54年のたった2年間で6本もの映画をこなすグレースケリーの人気ぶりは衰えることを知らず、テレビや雑誌のインタビューに写真撮影と、大忙しの毎日を送っていた。


カンヌでの熱い恋

グレースは1954年6月、映画『泥棒成金』に出演するため、先にコートダジュールで待つアルフレッドヒッチコック監督と合流するためカンヌへと飛んだ。グレースはカンヌの地で、共演者のケリーグラントと共にこの上なく楽しい時間を過ごしたという。

映画の撮影の間、グレースはケネディ家と親しかったコスチュームデザイナーのオレグ カッシーニに付き添い行動を共にしていたが、カッシーニは過去に二度の離婚を経験し、プレイボーイとして名高い人物。グレースはそのカッシーニと連夜行きつけの最高級レストランへ姿を現しており、カッシーニには当時のハリウッド で最も美しいと称されていたグレースに結婚を申し込むという目的があった。ハリウッドから遠く離れたコートダジュールの燦々と降り注ぐ夕日の下で、目もくらむほどのロマンティックなデートを重ねたグレースは、カッシーニのプロポーズを受け入れる。ところが、ふたりの写真や噂が瞬く間に報道を伝ってアメリカまで知れ渡り、またしてもグレースの両親から反対を受け、結婚を断念せざるを得なくなった。

すっかり失望した様子でロサンジェルスに戻ったグレースは、肉体的にも疲れ果て、 精神的にも不安定になっていた。 今まで一度も好きになれなかったカリフォルニアの空気がこの上なく重たくグレースの背中にのしかかる。パパラッチの嫌がらせ、雑誌や新聞の侮辱的なヘッドラインの標的にされ、ただ興行の売り上げだけを狙うハリウッドの世界に戻ったことで、人生も仕事も家族も何もかもが嫌になった。涙に暮れ、食欲をなくし、かつて誰もこれほど傷ついたグレースを見たことのないほど深い悲しみに沈んだ。そんな中、ニューヨークでの以前の生活を懐かしく思い、突然ハリウッドを去ってしまった。

1955年の2月、『喝采』でオスカーに最優秀主演女優賞としてノミネートされたと知ったグレースは、表彰式に参加するため、このとき再びハリウッドへ戻る。そして見事、賞を獲得し、女優わずか5年目で名誉ある偉業を成し遂げたのである。
その後、『喝采』のプロモーションのためカンヌ映画祭から招待を受け、再びカンヌへと発つ。


運命の出会い

ニースまで電車で向かったグレースを待っていたのは、たったひとりのフランス人の友人であの喜劇俳優のジャン ピエール オーモンであった。友人から密かに恋仲へと発展していたのだ。パパラッチを避ける手段をとるも、オーモンがグレース の”未来の結婚相手”との報道がすぐに流れ始めた。しかし、1955年の5月6日、彼女の人生を永遠に変える出来事が訪れる。

そこでの詰まったスケジュールの中に、モナコ公国でレーニエ公とのディナーとフォトセッションが組み込まれていたのだ。ジャンピエールとの密会を優先にしたかったグレースは、レーニエとのディナーを断りたいとすら思っていたようだ。しかし、彼に「このような重要な誘いを断ることは出来ない」と説得され、結局行くことになった。
レーニエに城内に案内され、初対面でおどおどするふたり。そして城の庭を散歩し始めた。数回言葉を交わし、握手をしたあと丁寧に別れを告げた。ところが、レーニエはグレースの繊細でフレッシュな魅力と成熟したところに、すでにぞっこん惚れてしまったのだ。軽率なところが全く見えないグレースのその部分を特に気に入ったという。グレースもまた親しい友人に「感じの良い人だった」と話している。

その後グレースはすぐにパリへ向かい、ジャンピエールと落ち合った。彼の甥達に囲まれ、和やかで幸せな時間を過ごしたが、ハリウッドの地は人気女優グレースケリーを映画『白鳥』の撮影のため、再び呼び戻した。

コメント

  1. グレースケリーは素敵な女優さんですよね。
    育ちも家庭環境も素晴らしいので、より魅力的です。
    またモナコ公国の王妃でもあり、その地位も得られて素敵です。

    エルメスの「ケリーバッグ」も有名ですし、日本にも来られて、日本建築も愛されたようですので親しみを感じます。
    有馬温泉にも泊まられたようですね。

    実は私は、今、尾道市でヨットハーバーを作っていまして、その名称を公募していますので、「尾道・グレース・ハーバー」と言う名称で応募してしまいました。

    また留美子さんの描かれたグレースの絵も趣があって素晴らしいですね。
    魅惑的なイメージで素敵です。

    今私のブログで、オーストラリアのレストラン「bills」を紹介しています。

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  2. J.TERAさん

    どうもありがとうございます。
    尾道グレースハーバーの響き、私はすごく好きです。グレースを中に入れた事で、モナコ公妃グレースケリーの優雅なイメージと、真っ白なヨットが停泊するモナコのハーバーを連想させます!しかも経済効果がアップしそうな名前ですね。私からもぜひ採用していただきたいです。

    「ケリーバッグ」は、確かグレースが懐妊で大きくなったお腹をマスコミのカメラから覆い隠すのに使って、それでそう呼ばれたという所以があったと思います。
    またそちらへおじゃまさせていただきます。

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